6. 會田先生以前の三人のメダカ遺伝研究者

  • ○ 日本で最初のメダカ遺伝の研究者
    図 5

    図 5. 石川千代松博士の実験結果の概要

    龍雄先生がメダカの遺伝研究を始める前、すでに先駆者三人によってメダカの体色遺伝について報告されている。最初の発表 (1913) は、琵琶湖岸の水産試験場の池でコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた元東京帝国大学名誉教授の石川千代松博士、続いて蚕の遺伝研究で養蚕業界に貢献した元東京帝国大学農科大学教授外山亀太郎と同じ年(1916)に発表した石原誠博士で、彼は日本で初めて心電図に記録するなど、心臓の自動性の研究では世界的権威者で京都帝国大学福岡医科大学(後の九州大学)元教授であった。

    石川千代松博士は 1909 年の実験として褐(野生)と緋の交配による F1 は全て褐となり、F2 で褐 : 緋= 3 : 1 に分離ことを石川博士講述 (1912) 原種改良論(水産講習所刊)104 頁に 記載し、翌 1903 年に同博士の “動物学講”(上・中)の上巻 272 頁にも同じことが書かれている。

    写真 10

    写真 10. 明治 18 年頃の深川金魚飼育池

    写真 11

    写真 11. 昭和 10 年頃の金魚池

    図 6

    図 6. 外山博士の実験結果の概要

    図 7

    図 7. 石川博士の実験結果の概要

    石川博士のメダカの実験場は日本における 魚の新品種作出の父といわれた 魚商の秋山吉五郎氏の深川の飼育場であった(写真 10, 11. 浦安市郷土博物館収蔵)。彼は明治 41 年 (1908) に東京帝国大学理学部のメダカの試験場として石川博士にスペースを提供している。しかし、こちらの経費は吉五郎氏持ちであったため、石川博士はその現状を気遣い、明治 43 (1910) 年に水産講習所の委託試験場としていくばくかの飼育料の補助を支給するよう取りはからった

    外山亀太郎博士のメダカ遺伝の研究も、石川千代松博士の薦めで秋山吉五郎氏の深川の飼育場が使用された。外山博士は “一・二の Mendel 形式に就いて” の表題で日本育種学会会報1 (1916) に朝顔とメダカの遺伝を発表した(写真. 12)。

    メダカの遺伝では、褐と緋と白が取り扱われている。褐が緋に優性であることの外に、緋は白に優性で F2 では 3 : 1 に分離すること、褐と白の交配は両性雑種で、F1 は褐(野生型)となり、F2 で褐 : 青 : 緋 : 白= 9 : 3 : 3 : 1 の比に分離する。白は全部メスばかりであると記載している。秋山吉五郎氏もそのことを知っていた。

    石原誠博士は外山博士と時を同じく 1916(大正 5)年に福岡医科大学雑誌第九巻第三号(259~265 頁)に「メダカノ体色ノ遺伝に就いて」を発表している。石原博士の研究結果は石川博士と外山博士の研究結果と同じであるが更に褐は黒斑に対して優性であり、黒斑は緋に対して優性であることを明らかにした(図 7)。

    しかし石原博士が実験に使用した白メダカは銀白と記されており、普通の白とは異なるのではないかとされている。この研究では白にはオスもメスも含まれていた。市販の白はほとんどメスだけで、白オスは會田先生と山本時男先生のところでも Xr と YR の交叉で Yr が出来た白オス (XrYr) ができた結果で、いずれにしても外山・石原両博士とも伴性遺伝は発見されなかった。

    写真 12. 日本育種学会会報第一巻第一号 p149 (1916) に発表された外山亀太郎博士の論文

    写真 13. 福岡医科大学雑誌第九巻第三号 (1916) に発表された石原誠博士の論文
    (この別刷り松井佳一先生から竹内が戴いた。松井先生へ「乞批正」とある)

/medaka