4. 第五高等学校(熊本時代)

明治 31 年 (1898) 8 月 13 日付けで第五高等学校の教授となり、熊本に赴任した。

  • ○ 赴任当初の逸話

    明治 31 年その当時、生徒の間には、新任教師を脅かして喜ぶような風潮があり、會田先生は、そのことを知ってか知らずか、着任するとすぐに剣道場に現れた。剣道部の生徒が先生の相手をしようとしたが、試合に立ち会った師範は、先生の構えを見て、その生徒では勝負にならないと判断し、生徒に相手をすることをやめさせた。そして師範自身が先生と試合することになった。これは互角の勝負であったが、先生は後で、師範の腕前はさすがに自分よりも上であったと述懐された。学校では、このことが直ぐに生徒の間に広がったので、先生は何事もなく教壇に立つことができたと云う逸話が残っている。

  • ○ 夏目漱石と先生

    會田先生の第五高等学校時代には、同僚として漱石がいた。漱石は會田先生より 2 年前に松山から赴任して、熊本で鏡子(キョウコ)と結婚した。その翌年鏡子が流産してヒステリックな生活が続き、漱石もノイローゼになり、二人の間に不和が続いた。夫人の鏡子が熊本の白川に入水する自殺未遂事件があって、学校でもそのことが話題となり、漱石に同情するものと、夫人に同情するもののグループが出来た。先生は鏡子夫人について同情されたとのことである。雄次さんは漱石について先生は「何だかねちねちした人だった」とか「子供さんや奥さんが可愛そうだった」とかという言葉をちょっと漏らされたことを父から聞いた記憶があると、雑誌の記事に記しておられる(中央公論 昭和 42 年 3 月号、251p)。また漱石は明治 33 年 (1900) 5 月、英語研究のため文部省第 1 回給費留学生として、満 2 年間留学を命じられた。五高ボート部の部長をしていた漱石の後の部長を先生が受け継がれることになったと、私(竹内)は直接先生から聞いたことがある。

  • ○ 先生の結婚

    會田先生は熊本で鹿児島県出身の女性と恋愛結婚され、一男一女をもうけられた。先生にとって、熊本での生活は一生のうちで最も楽しいものであったろうと想像される。ただ相手の女性がどのような人であったかは不明である。

  • ○ 熊本での教科書出版と研究業績

    熊本へ赴任されてからも、先生は海産浮遊動物に対する興味を持ち続けたが、勤務の関係で、研究に没頭することは困難であったが、先生は講義と関係深い動物学教科書の著作に努力された。1903(明治 36)年に “新撰動物学” 上下 2 巻を博文館から刊行された(写真 8)。当時動物学の邦文教科書はほとんどなかったので、動物学の普及に大いに役だった。

    写真 8. 「新撰動物学」上下 2 巻を博文館から刊行 (1903)

    熊本に移ってから 4 年を経て 1902(明治 35)年頃から海産浮遊動物の尾虫類について研究を始め、機会ある毎に有明海の海岸へ行って標本を集められた。この研究結果を 1907(明治 40)年の“東京帝国大学理科紀要”に英文で発表された(写真 9)。先生によると、日本の沿岸で採集された尾虫類は 12 種で、そのうち 4 種類が新種であった。

    Appendiculavia of Japanes Waters 論文内の先生の尾虫類のスケッチ

    写真 9. 東京帝国大学理科大学紀要 第 23 冊 5 号 (1907) pp 1-25

    熊本時代には水溜まりにミジンコが繁殖するのをみて、これを飼育し、冬卵・夏卵のできる原因を調べられたが、研究成果は発表されなかった。

/medaka