10. 先生は最後の研究を竹内哲郎に託す

先生の 65 歳の時 Genetics に第 3 論文を発表された以後は、新しい研究の論文は発表されていないが、晩年まで研究意欲は旺盛で、メダカの飼育と研究は 83 歳の 1954(昭和29年)まで続けられた。長年記録し、残された飼育ノート (Result of year Breeding) は 1954 年で終わっている。(写真 30)。(註: このノートは先生がこの年まで研究を続けられた「証し」として、芳子さんから贈られた。遺品として竹内が保存している。)

  • 写真 30

    写真 30. 先生が残された最後の年の「Result of 54 Breeding」記録綴り

    ○ 先生最後の研究

    先生の最後の研究は、京都の洛北で新たに発見されたメダカで、体色が野生型と異なり、light-blue のメダカ(後に竹内は gray 命名)の体色遺伝の研究であった。研究結果は、light-blue メダカと white メダカの交配によると、F2で brown, blue, light-blue, white の体色の異なる 4 種類が分離することを見いだされ、これは「色消し ci (color interferer)」によるもので、この結果を発表する予定の会(1954 年の京都遺伝談話会)は体調を崩し、未発表に終わったと竹内に話された。この頃、先生は高血圧で、体調を崩される日が多くなり、メダカの飼育管理を気にされる様になったが、研究への思いは強く、1955 年の春には先生の飼育場には XY オスが種切れとなり、山本時男先生に依頼をされるほど、研究に意欲を示しておられた。しかし体調不良の日が続き、先生の 40 年にわたる長い研究生活は 1954(昭和 29 年)で終わられた。

  • ○ 先生から竹内に託された ci (color interferer) 因子の研究

    1954(昭和 29 年)、当時岡山大学生物学科の 3 年次生であった竹内哲郎( 筆者)は、直接先生にお会いしたく手紙を出し、後日上洛するよう次の様な丁重な返事を戴いた。(写真 31)。「拝復 去る十三日のご芳書の返事が遅れ申し訳在りません。実は身体の不調を感じ 医師より絶対静養を強いられて居りましたので 従って返事を出すことをちゅうちょしていましたが、昨今の状態からも余程快癒する事と存じますから御「光来」して下さいましても失礼致す事はない事存じます 勿々 御出の際には前持って時刻を電話にてお知らせ下さい」。竹内は 5 月 16 日上洛し、宅を訪問し、先生に初めてお会いした。

    (註:当日先生に面会した情況は「會田龍雄先生と山本時男先生を回顧して」を参照)

    写真 31. 龍雄先生から頂いた最初の葉書(裏面は芳子さん代筆)

    写真 32

    写真 32. 會田龍雄先生宅の応接室で「メダカの ci 遺伝子による体色遺伝」の説明を受ける。先生の説明メモにサインをお願いした。(1954 年 5 月 18 日)

    当日は會田先生から竹内へメダカの ci 遺伝の説明があった(写真 32)。その概要は、「京都洛北で見つかったメダカは体色が淡青 (light-blue = LB) で遺伝子構成は BBRRCiCi であり、LB と bbrr (white) との交配による F1 では全て BbRrC+ (brawn) が生じ、F2 は brawn, bleu, light-blue, red, white の 5 表現型に分離する。そのうちの red の遺伝子構成は bbRrCi+bbRRCi+、white は bbRRCiCi, bbRrCiCi, bbrrCiCi, と考えられるが、表現型が red も white も個体の間に微妙な色の違いが見られる。この交配実験の結果は、京都の「遺伝談話会」で発表する予定であったが、当日体調を崩し未発表に終わったが、この「色消し ci」については納得出来ない幾つかの不明の点もあるので、君が是非、一から再実験を試みるよう強く指示された。先生から頂いた研究テーマとして竹内は先生の研究を引き継ぐ事を約束した。

    先生は雑談の中で竹内に「メダカも生き物、緻密な観察、観察を通して生まれる疑問を大切にすること。研究は時間をかけ、決して成果を急がないことが肝心です」と諭すように話された。

  • ○ 竹内の「色消し ci」の研究

    會田先生より竹内に移譲され岡山へ持ち帰ったメダカは、gray(先生は light-blue と呼称)、white (bbXrXr, bbXrYr), fused, brown(野生型), red-varigate (B’B’RR), white-varigated (B’B’rr) と 1951 年に山本時男先生が會田先生を 2 回目に訪問された折、提供された d-rR (bbXrXr, bbXrYR)の 7 系統であった(写真 33)。

    写真 33

    写真 33. 1954 年會田先生より頂き、持ち帰ったメダカの種類、2019 年現在も系統保存をしている。

    岡山大学に移されたメダカはしばらく飼育管理をしつつ、研究計画案の作成に取りかかった。計画に際しては、先生の交配実験の方法と結果に囚われず、独自の方法に沿って交配実験を進める事を原則にした。具体的には ①親となる系統即ち、京都洛北で採集されたオリジナルな gray メダカを集団交配し、その子孫に表現的に色の異なった個体が出現するかどうか、即ち gray として純系が保たれているかを確認。②交配実験には同じ親の組み合わせを、2 組以上行う、③F2 に分離する個体の鱗に出現する色素胞を顕微鏡で観察し、表現型の異なる個体を分別する。④F2に生じた表現型の異なる体色をしたそれぞれのタイプの純系を創り出す作業を進める。以上を念頭に、実験を進めた。交配実験を始めて 2 年目 (1955) には
    ①の体色 gray だけの集団交配では、2 代目までは全て gray で、gray 以外の異なった体色の個体は見つからなかった。②では,gray ♀ × white ♂ (bbrr++) と white ♀ (bbrr++) × gray ♂ の組み合わせの交配をそれぞれ 2 組行い F2 まで稚魚をえた。③會田先生が私に説明された gray メダカと white の交配による F2 のメダカの分離比に疑問を感じておられたので、②で得た F2 の稚魚が成育し成魚になるのを待ち、メダカの鱗の色素細胞を顕微鏡で観察して、体色を比較した。透過光による光では鱗の xanthophore と melanophore の映像は明瞭に観察される。偶然ながら顕微鏡の下からの透過光と上からの反射光を同時に鱗にあてると、上からの光で鱗が反射して xanthophore と melanophore の他に、leucophore が白く鮮明に観察出来る事を偶然ながら発見した。急いで先生に報告すべく、当時カラーフィルムとして売り出されたアメリカ製アンスコフィルムでメダカの鱗を顕微鏡で撮影し、1956 年 5 月某日写真を持参し、先生に見て戴いた。先生は「「そうか、なるほど」「うんうん」と言葉を発せられ満足の様子であった(写真 34)。

    写真 34

    写真 34. 表示のメダカの顕微鏡による色素細胞
    (A: 透過光による撮影。 B: 透過光と反射光を併せた光による撮影)

    ④gray と white の交配による F2 では分離比は不明であるが、8 種類の異なる体色メダカが分離することがわかり、このことも先生に同時に報告した。竹内の見解として、先生が提唱された ci 遺伝子が劣性遺伝子ホモの場合、色素細胞の leucophore が出現し、鱗に出現する色素細胞の大きさ、数に差があることを報告した。そして先生の交配実験に用いられた LB (Light-blue) を,gray に、淡青色に近い青メダカを light-blue と名称に変更したいとお願いした。先生からは「メダカの表現型の名称は、君に任すが、山本さん(先生より紹介されていた山本時先生)とよく相談して決めなさい」と許しを得た。 會田先生は 1957(昭和 32 年)12 月 16 日 87 歳で天寿を全うして逝去された。先生に最初にお会いしてから 12 年間、ci によるメダカの体色遺伝の研究を重ね、1969 年論文を岡山大学生物学紀要に「A STUDY OF GENES IN THE GRAY MEDAKA, ORYZIAS LATIPES, IN REFERNCE TO BODY COLOR」と題して (BIOLOGICAL JOURNAL OF OKAYAMA UNIVERSITY, Vol.15, Nos.12, pp.124, March, 1969. Okayama, Japan.) に発表した。(写真 35)。

    写真 35. 岡山大学紀要で発表した ci 因子による体色遺伝の概要を示す写真

  • ○ オリジナルの gray メダカについて

    會田先生が ci 因子の研究に使用された LB (light-blue) は名称を gray に変更したが、この gray メダカを誰が、何処で採集され、會田先生宅へ何時入ったか疑問であった。先生の健在中に聞く機会を失い、ただ先生は京都洛北で採集したメダカと最初の説明で話された。山本時男先生は會田宅を 6 回訪問され(1947、1951、1953、1955、1955、1956)會田先生と親交があったので、先生亡き後、山本先生に上記の疑問をお尋ねしたが、山本先生もご存じなかった。1968(昭和 43 年)3 月 24 日付けの書状で grey メダカの採集者のことについて山本先生より情報を頂いた(写真 36)。

    写真 36

    写真 36. Gray メダカの発見者の氏名調査を山本時男先生が市川衛博士に依頼し、中堀英二氏であることが判明した。(1968 年 3 月 24 日 山本先生からの書状)

    写真 37-1

    写真 37-1. 1954 年の Breedings ノートには ci 遺伝子の形質型分離理論と その結果が示されている。

    写真 37-2

    写真 37-2. 「Result of 54 Breeding」ノートの下段に理論と実験結果との不一致に悩んでおられる事が走り書きで伺える

    gray メダカの発見は中堀英二氏で、彼は京都大学理学部の用務員で、大学構内でメダカを飼うのを楽しみにしていた人あった。当時京都大学教授であった市川衛博士に山本先生が調査を依頼され氏名が判明したが、それ以外は不明であった。會田先生の子息雄次さんと雑談した折に、中堀英二氏のことを尋ねたことがある。雄次さんは「父は様々な職業や、特技、趣味などを持った多くの人との交流があったが、その中にはメダカの愛好者がいて、宅に絶えず来て水槽のメダカを眺めていた。その中の一人かも知れない」と話された。中堀氏と先生は日頃からのメダカ仲間で、中堀氏が洛北で gray メダカを採集し先生のところに運んだと思われる。その時期は残された先生の 1952 年の「Breedings」ノートに 2 組の gray ♀ × gray ♂ の交配結果が記録されていて、2 組の F1 は全て LB と記されている。従って gray は雌雄各数匹が採集されており、以後の純系保存が可能となり、ci 遺伝子研究に繋がったと考えられる。先生の残された最後の「Result of 54 Breeding」ノート(1954 年)には ci 遺伝の結果記録が記載されている(写真 37-1)。この記録を拝見して感じる事は、実験に着手されそして、研究を閉じられた 4 年間の間に生じた F2 の多数の個体を表現型ごとに克明に肉眼で分類されていること。その結果が表現型分離の理論に合致しない事で悩まれていたことが伺える。

    写真 37-2 に示したノートの下部分に「…何カノ間違イナラン病気??ル為 記号の記載ガ間違ッタモノナラン」とメモ書きがある。体調不良ながらもメダカと対峙されている様子が伺える。

/medaka