11. 息女芳子さんへの先生の思い

會田先生が熊本の第 5 高等学校を退職し、京都へ帰郷 (1903) されてから,まもなく幼い長男と長女を残して夫人が亡くなり、不自由なやもめ暮らしのなか、メダカの研究を始められて、まもなく後添えを迎えられた。そして次男雄次さんと次女、三女の芳子さんが誕生したが、雄次さん 4 歳 1920(大正 9 年)の時先妻の子供二人と自分の子三人を残して二度目の夫人が亡くなった。

写真 38

写真 38. 山本時男先生より Bibliographia Genetica岡山大学で購入して頂くよう竹内に交渉を依頼された書状の一部(文面の赤線部分で示した)。

写真 39

写真 39. 全快した芳子さんと雄次さんの孫真理子さん京都黑谷常光院本堂前にて(昭和 33 年 7 月)

先生は以後結婚されなかったが、その後も不幸は続き、動物好きで先生が将来期待されていた長男や長女、そして次女を次々と胸の病で失い、女性で、ただ一人残った芳子さんも 18 歳でカリエスに罹り、寝たきりの生活が続いた。そして、戦争が始まり、雄次さんも軍に招集され、戦後まで先生の苦悩の日々が続いたが、特に娘で一人残った芳子さんの病気を大変心配されておられた。先生亡き後、雄次さんは先生の蔵書の中で初版から戦前まで全巻揃った遺伝学雑誌 Bibliographia Genetica を処分し、芳子さんの治療費に当てようと考えられた。山本時男先生は會田先生の要望で 6 度目の上洛(1956 年 1 月 15 日)の折、會田先生から処分方の相談を受けておられた。しかし、蔵書の処分先が見つからず、竹内への書状(1968 年 2 月 15 日)(写真 38)の中に「…只令嬢芳子さんがご病気のことは生前から先生が一番気にかけて居られたことであり……尚 Bibliographia Genetica の方は当方でも二、三の所に当たっておりますが、見込みがつかず困っています。モーガンやゴールドシュミットの力作ものって居ることもあるので、非常に価値のあるものです…」とあり、川口先生に岡山大学で購入して頂く様交渉して欲しいという要望があり、早速川口教授と大倉教授に事情を話しお願いした。なお、山本先生には両教授に依頼状をお願いした。当初は不可能な情況であったが、川口先生が交渉の労を執られ岡山大学中央図書館が同雑誌を 6 万 5 千円で購入した。医療保険制度のない時代手術費の捻出は大変なことでであったが、芳子さんはその後京都大学付属病院で手術を受け、術後 3 ヶ月は絶対安静を条件に 1958 年 12 月 13 日に退院された。芳子さんはその後生活に支障のないほど順調に回復された。(写真 39)。龍雄先生の 1 周忌を迎える直前に退院されたが、龍雄先生が健在であったら、大変喜ばれたであろうと、一同で話し合った。

/medaka